衆議院選挙を含めた2021年の雑文

 今回の2021年衆議院選挙は、私が支持してきた野党勢力の惨敗と与党の圧勝で終わった。この選挙の前後も含めてこれまでの社会・政治状況への雑感と今後について少し書いておきたい。

 

 消費税増税による一段の経済的苦境が酷い中でのコロナ禍というひどい状況であったこの二年間。近場の飲み屋が唯一の地域コミュニティだった自分としては、コロナ禍はそうした地域の居場所すら奪われた二年間だった。飲み場所を提供する側の苦悩は、店主らに精神的ショックや精神疾患を患わせるひどい状況だったし、誰もが「補償なき自粛要請」に強いストレスを抱え来た。私自身もこうしたコロナ禍で仕事をやめざる得なかった。

 そもそも私が見る限り昨年の消費税増税でいつもは混んでいるはずの時間且つスーパーでレジへの行列が無くなるほど買い物客が減少をよく目撃していたので尋常じゃない経済状況を感じていた。2019年末の増税による光景は1997年拓銀山一證券破綻の状況と同等に酷いものと感じた。そして翌年2020年のコロナ禍が重なり自分の生活圏内では酷い苦境の対する声が一のんべえの私ですらたくさん聞こえてきた。

 そのような苦境に対する怨嗟が自民党公明党と維新への批判とはならず、政府の無策を批判してきた野党を罵る声の増大が街場にいる自分の実感として非常に強かった。街場の意見としては「コロナ対策のために野党は手を貸せ」という意見が大半だったが、正直野党がいなければ「持続化給付金」「雇用調整交付金の活用期間延長」はまったくなかったにもかかわらず、何故か街場では野党ばかりがなじられる現象が生じていた。

 

 21年衆院選が終わって早々立憲民主党の新代表は言う「政策提案型野党になる」。コロナ対策のための政策を散々提案して政権与党に全て実行してもらったにもかかわず、全て与党が政策立案したことにされてしまった。すでに提案型野党であったにもかかわらず立憲民主党の新代表がそんなことをわざわざ言わなければならないのはあまり非道だ。

 衆院選後の立憲民主党代表選挙報道をみてると共産党との共闘は過ちであったとか政府批判ばかりしている野党とというイメージの増幅だけの記事しか見られない状況は続いている。マスメディアでは日本から複数政党制を否定するような意見が大半を占めるのではないかという印象を感じてしまう。

多分、日本は半ばの全体主義から本当の全体主義に向けて変質しつつ有ると思う。

 

 経済が酷い状況でも貧困層が急増大しても株高で潤う層が日増しに意見がましているため、私達の日本はもう無いというか破滅に向かってる最中なんだと思う。今回の選挙にしたって有権者の半分は選挙に行ってない酷い有様。私のような野党支持者は日本においては与党支持者の1/4程度しかない状況でもはや挽回のしようがないと私は判断している。来年は憲法改正が成功するだろう。国民主権基本的人権社会権も私達から私達の手によって剥奪されるの必至の状況なのだ。

 

 わたしは2008年に旧民主党に入党してささやかながらも党費納入や献金をしてきたが、それも全てやめてしまった。いくら新自由主義新保守主義に抵抗しても日増しに強まる経済的苦難が増大する社会では右傾化は全く避けられないし抗うことすら不可能だというを知った。

 人々はインターネットという最大の手段を手にしててもこの日本の不都合な事実をたいして抵抗することを全くしない。むしろ人々は与党と政府による洗脳対象として利用され続けることに喜びを感じる卑しい人々の集まりで良いと感じている。そんな卑しい身分に居続けることを日本国民全体でどうも選んでしまったと私は考える。

 

 私自身は別の形で抵抗しながら同時にこれから来るであろう社会を覆う「暴力と惨禍」にたいする備えはしていこうと思う。コロナ禍で酷いストレス状況で顔面がチック症のように歪んでしまった「多くの」店主たちの苦悶を置き去りしてでも今後必ず来るであろう「暴力と惨禍」から逃げて耐えて生き残らなければならいない。

 

さようなら、私が愛した「日本」