flatpakアプリのパーミッション設定

ubuntu 23.10へアップグレード実施したらMcomix ver2.x系が利用不可になった。

Flatpak版の3.0導入したらフォルダの読み込みができなくなっていた。

どうやらFlatpakアプリとしての権限による問題だったようだ。

 

Flatsealというアプリで権限を下記のように設定するとフォルダ読み込みができるようになった。

flatseal画面

ubuntu 23.10にPLEX PX-W3PE5をインストールする

ubuntu 23.10にアップグレードしたので非公式PLEXドライバについて記述する。

下記/nns779/px4_drvのドライバがアップグレードにともなって利用不可になってた。

GitHub - nns779/px4_drv: Unofficial Linux driver for PLEX PX4/PX5/PX-MLT series ISDB-T/S receivers (not V4L-DVB)

 

kernel 6.5以降は一般的に使われていた非公式PLEXドライバは利用できなくなったようだ

 

下記ドライバだったらインストールできた。

https://github.com/tsukumijima/px4_drv

インストールコード

$ wget https://github.com/tsukumijima/px4_drv/releases/download/v0.4.1/px4-drv-dkms_0.4.1_all.deb
$ sudo apt install -y ./px4-drv-dkms_0.4.1_all.deb

今までの非公式PLEXドライバは公式ドライバからファームウェアを抜き出してインストールしていたがdebパッケージ内に格納されているため、シンプルだ。

 

 

kubuntu メモ モニタ解像度設定にWQHDを追加する

UBUNTUだとモニター解像度追加は" xrandr "で行うことが一般的とされるが

実際は全くうまく行かない。原因はX WINDOWが改修されてるからだと思う。

またx.orgは廃止になったからだ。

 

よって下記内容でかんたんに解像度を追加できる

 gedit ~/.profile

 お好みのエディタで下記コード追加する

 xrandr --newmode "2560x1440R"  241.50  2560 2608 2640 2720  1440 1443 1448 1481 +hsync -vsync

 

 xrandr --addmode HDMI-A-0 2560x1440R))

HDMI-A-0のところは" xrandr "コマンドでアダプタ名取得してください

 あとは保存して

sudo reboot

 

当方環境

【CPU】   Ryzen5 5800X(PBO AUTO)
【M/B】    GIGABYTE B550 AORUS ELITE V2 (rev. 1.1)
【MEM】  CORSAIR DDR4 3200MHz 16GB×2 CL16
VGA】   SAPPHIRE NITRO+ AMD RX 6700 XT@AUTO OC
【Driver】 OpenGL version string: 4.6 (Compatibility Profile)Mesa 23.2.1 - kisak-mesa PPA
【Sound】Denon PMA-2500NE
【OS】      Linux xxx 6.2.0-33-generic / Kbuntu 23.04

 

以上でWQHDの解像度がシステム設定から選択できない場合のメモでした

 

衆議院選挙を含めた2021年の雑文

 今回の2021年衆議院選挙は、私が支持してきた野党勢力の惨敗と与党の圧勝で終わった。この選挙の前後も含めてこれまでの社会・政治状況への雑感と今後について少し書いておきたい。

 

 消費税増税による一段の経済的苦境が酷い中でのコロナ禍というひどい状況であったこの二年間。近場の飲み屋が唯一の地域コミュニティだった自分としては、コロナ禍はそうした地域の居場所すら奪われた二年間だった。飲み場所を提供する側の苦悩は、店主らに精神的ショックや精神疾患を患わせるひどい状況だったし、誰もが「補償なき自粛要請」に強いストレスを抱え来た。私自身もこうしたコロナ禍で仕事をやめざる得なかった。

 そもそも私が見る限り昨年の消費税増税でいつもは混んでいるはずの時間且つスーパーでレジへの行列が無くなるほど買い物客が減少をよく目撃していたので尋常じゃない経済状況を感じていた。2019年末の増税による光景は1997年拓銀山一證券破綻の状況と同等に酷いものと感じた。そして翌年2020年のコロナ禍が重なり自分の生活圏内では酷い苦境の対する声が一のんべえの私ですらたくさん聞こえてきた。

 そのような苦境に対する怨嗟が自民党公明党と維新への批判とはならず、政府の無策を批判してきた野党を罵る声の増大が街場にいる自分の実感として非常に強かった。街場の意見としては「コロナ対策のために野党は手を貸せ」という意見が大半だったが、正直野党がいなければ「持続化給付金」「雇用調整交付金の活用期間延長」はまったくなかったにもかかわらず、何故か街場では野党ばかりがなじられる現象が生じていた。

 

 21年衆院選が終わって早々立憲民主党の新代表は言う「政策提案型野党になる」。コロナ対策のための政策を散々提案して政権与党に全て実行してもらったにもかかわず、全て与党が政策立案したことにされてしまった。すでに提案型野党であったにもかかわらず立憲民主党の新代表がそんなことをわざわざ言わなければならないのはあまり非道だ。

 衆院選後の立憲民主党代表選挙報道をみてると共産党との共闘は過ちであったとか政府批判ばかりしている野党とというイメージの増幅だけの記事しか見られない状況は続いている。マスメディアでは日本から複数政党制を否定するような意見が大半を占めるのではないかという印象を感じてしまう。

多分、日本は半ばの全体主義から本当の全体主義に向けて変質しつつ有ると思う。

 

 経済が酷い状況でも貧困層が急増大しても株高で潤う層が日増しに意見がましているため、私達の日本はもう無いというか破滅に向かってる最中なんだと思う。今回の選挙にしたって有権者の半分は選挙に行ってない酷い有様。私のような野党支持者は日本においては与党支持者の1/4程度しかない状況でもはや挽回のしようがないと私は判断している。来年は憲法改正が成功するだろう。国民主権基本的人権社会権も私達から私達の手によって剥奪されるの必至の状況なのだ。

 

 わたしは2008年に旧民主党に入党してささやかながらも党費納入や献金をしてきたが、それも全てやめてしまった。いくら新自由主義新保守主義に抵抗しても日増しに強まる経済的苦難が増大する社会では右傾化は全く避けられないし抗うことすら不可能だというを知った。

 人々はインターネットという最大の手段を手にしててもこの日本の不都合な事実をたいして抵抗することを全くしない。むしろ人々は与党と政府による洗脳対象として利用され続けることに喜びを感じる卑しい人々の集まりで良いと感じている。そんな卑しい身分に居続けることを日本国民全体でどうも選んでしまったと私は考える。

 

 私自身は別の形で抵抗しながら同時にこれから来るであろう社会を覆う「暴力と惨禍」にたいする備えはしていこうと思う。コロナ禍で酷いストレス状況で顔面がチック症のように歪んでしまった「多くの」店主たちの苦悶を置き去りしてでも今後必ず来るであろう「暴力と惨禍」から逃げて耐えて生き残らなければならいない。

 

さようなら、私が愛した「日本」

 

 

「萌え豚」が嫌いなわけ

 ずっと疑問に思ってた萌えとかアニメオタクで主流の考えになぜ酷い嫌悪感を感じるのかなんとなく、今分かった。
 
 萌えとかで文化消費しているだけの人たちから見れば、自分の見ているだけの風景が当たり前だと思ってる。
 
カネと時間さえつぎ込めば、どんな探究心がなくてもとりあえず消費して幸せになれると思い込んでる。そういう文化的にも流通的にも下流の人たちって眼の前にあるものに対して何も尊敬も敬意もない。
 
しまいにそういう現代オタクに限らず消費するだけでそういう工夫もしない人たちは他の人たちもそういうふうに生きているだとみなしてる。
 
最後には萌えだとか流行だとかでしまいに私にも消費行為を強制してくる。
 
こんな感じで知性とか歴史とか文化を消費し尽くして鼻っから大事なものはなんて無いんだという考えが当たり前になって
 
今では「事実を真実と言えない」状況があたりまえの世の中になったんだと思う。
 
暮れもちかづいて来たきょう本日、なぜわたしがオタクや文化を浪費的消費する人に嫌悪するのかがよく分かった。
 
なにか文化に触れるときはわたしは探究心と敬意だけはシッカリ持とうと思う

消費するだけのオタクが気持ち悪い

ブヒるオタクにつける薬はなし

 

ブヒるだけのオタクはまわりもブヒる対象としてみている

だからいつ自分もブヒられるかどうか警戒したほうが良い

 

ブヒるだけのオタクがなぜ気持ち悪いか今は分かった

『“TERF”と女性を呼んで批判している男性の皆様へ』について

 はてなブックマークで書き記事を見かけたので所感を書いておく

"TERF"と女性を呼んで批判している男性の皆様へ | Female Liberation jp

 

 なんらかの形で女性が性暴力うけたらトランス女性への不信感はありうることだと思う。以前の職場にはトランス女性の方がコールセンターオペレーターとして私と一緒の職場にいた。このトランス女性が派遣として当時の職場に入ってきたとき、服装や化粧のレベルぐらいから見てただの「変態」ではないかと正直思うことがただあった。

 例えばフケだらけの頭に頬紅を真っ赤に丸く塗って顔を白いドウラン染めにしたときは、正直トランス女性としては見てなかった。ただのだらしない格好で来る変態さんとしてみていた。

 若い頃、この手の変態さんにしばしば性的嫌がらせ受けたことが結構あったので、なんかくだらないことしようものならば、何かしらの対応が必要だと切に考えてた。特にオペレーター席で向かい合わせなってフケだらけの頭をもたげられた瞬間、若い頃のとんでもない記憶が呼び覚まされて完全に「拒絶」してた。

 だから上掲urlの記事についてはトランス女性への恐怖がすごく分かる。この職場にいたトランス女性に対して恐怖感が強かったのだが、人づてに聞くと元々道庁職員で普通に暮らしていた人とのことを聞く。それからは露骨にいや顔はしないようしていた。

 ただそのトランス女性自体からはすでにそのときに私が露骨な態度をしていたので相当嫌っていた様子なのだが、その拒絶具合がまさしく女性の拒絶具合と全くそっくりであった。推測でしかないのだが、それ以降は男性器を切り落とさないトランス女性について本当にこころは女性で見かけ男性という人がいるんだなと思った。そのトランス女性についてはすこしだけまともな目線で見れるようになった。

 

 上掲urlの筆者もそういう経験がなければわからない話だと思う。さらに輪にかけて左翼男性のへの批判も多分そのとおりだと思う。

 

 こんな経験が私にはある。それは左翼がかった札幌のミニシアターオーナーとのやり取り中心になる。とある日、私の恋人(女性)はフランス語も話せるアラブ系で上映言語について記載がない映画館なので、そのミニシアターへフランス語の映画はどれとどれなのか電話かけて質問しようとした。たまたまそのオーナーにつながってしまった際にフランス語堪能な連れと行くのでフランス語の映画の有無についてたずねた。オーナーからは「フランス語についてはわからない自分で確認してくれ」とガチャ切りされしっまたことがあった。その時の言葉の切れ端に「外人の女性なんて知らないどうでも良い」という趣旨の言葉が混ざりつつもガチャ切りされてしまう。

 

 この内容だと私が要らない情報を混ぜてきいたからオーナーがそういう発言したということになる。多分半分はそうだろうが、大学生くらいからずっとこのミニシアターオーナーとは不快な思いを繰り返しさせられている。障害手帳をだして通い始めたあたりからすごい嫌そうな態度で料金の受け渡しはするし、質問しても言いたいことは言うが答えてくれない対応が多い。どういうわけかこのオーナーはいつもそういう人だった。

 

 長らくただの頑固な昔ながら左翼爺とおもってたが、本人も気づいてない差別心が強い人なんだなとフランス映画の電話の件で明確に思うようになった。

 

 過去にも生活保護受けてる過程で地元の共産党関係者に弁護士を通じて生活支援を頼んだときも障害なとの原因であることを理由に断られたことがあった。左翼なのに共産党は差別するんですねとは言わなかった。そうした「古い左翼」とあえてあらそわないで反面教師にしていろいろ(共産党以外の)政党を有権者として支援してきた。一応私も「左翼」と呼ばれてもいいような程度には勉強してきたつもりである。(マルクスは経済政策として全く採用に値しないが…)

 

 多分上記URLのような批判的物事を鋭く語れる人は、本来であればもっと社会をより良い方向へすすめられる優れた人なんだろうと思う。こういう考え方の持ち主が、主に左翼への批判として書かなければならない程、追い込まれた状況を考えると、深く同情をしてしまうしつらい状況に共感してしまう。そして被害者になりやすい女性のため執筆記事が、批判のための批判させてしまうようなどうしようもない状況をつくってしまう今のリベラルとか左翼とか呼ばれる人たちの無能さやいい加減さを明らかに示している。(さんな無能者の一名なのでかえたいとは思っている)

 

 ただそんな彼女も男性である私のように男性からの性被害者(男性)がいるという視点がないのも若い運動体ならではの大きな誤謬のような気がする。「若い運動体」だからといってわざわざ視野を狭くして強い口調で語ったところで大きな共感は呼び起こさないし「古い左翼」を古いままの状態にしてことに加担しかねないと思う。というかこういう口調で批判し続けていたら、遅かれ早かれ先鋭化過激化せざる得ないするだろう。

 

 私はそういう意味では危惧はしている。しかしながら掲題のきっかけとなった記事の筆者の考えは概ね妥当だと思う。ただ先々は心配は心配なんだけれど